ブログサイト〔毒親卒業トレーニング〕へようこそ
タイトルの「卒業」には
①毒親(機能不全家族)の負の影響から卒業(克復)
②毒親になる不安やそうなった後悔から卒業(克復)
という2つの意味を込めています。
このサイトが生きづらさ克服と子育ての両方に役立つことを願っています。
こんにちは。カウンセリングオフィス トリフォリの高澤です。
以前こちら(↓)の記事で、場にそぐわない強い怒りのことを「偽物の怒り」としてご紹介しました。併せてその怒りを手放し、楽になっていくための流れもご紹介しました。
↓
ただしそこでは偽物の怒りの正体については触れていませんでしたので、今回ここでご紹介しようと思います。
恥を隠すためのフタ
先日ある記事に、上司から連日の遅刻を注意されただけで激怒して上司を罵り、その場で辞表をたたきつけた新入社員の話が書いてありました。そもそも上司は怒鳴ったわけでも批判したわけでもなく、軽く口頭で注意しただけだったことを周りの人間も見ていたため、その怒りの尋常ではない様子に驚いた、とありました
あくまでも仮説ですが、この偽物の怒りの下にある感情はおそらく「恥」ではないかと思います。「自分はダメ」「劣っている」という思い込みがあると、そこに触れられたときに強い恥の感覚(過剰であれば屈辱感)が一気に活性化します。それが「場にそぐわない」反応として表出されます。つまりこのケースは「恥」の感覚を回避するための感情として「激怒」が使われたのではないかと推察します。
したがってここで自分助けに必要なことは
不完全な自分を慈しむこと
過剰な期待値
(偽物ではありますが)一般的には、怒りは「相手への期待」と「現実」のギャップによって生じるとされています。人に親切にしたときに「ありがとう」と言ってもらえなくて怒る人とそうでない人の違いは、ありがとうと言ってもらえることを「期待しているか否か」の違いです。期待値が高ければ高いほど、強い怒りとして認識されます。
したがって一見強い怒りと感じる中には
過剰な期待(欲)が満たされなかったことによる欲求不満
がかなりの割合で含まれていることになります。
過去と他人は変えられないと申しますが、
変えられないものを変えようと切望するほど
人は強い欲求不満にさらされます。
したがってここで自分助けに必要なことは
自分に変えられるものと変えられないものを見分けること
心の奥深くに抑え込まれた本音の半分
どんな人も一見相いれない二つの性質を併せ持っていると言われています。
たとえば
愛する心 vs 憎しみの心
善を欲する心 vs 悪を欲する心
創造を求める心 vs 破壊を求める心
対等でいたい欲求 vs 支配したい欲動
などなど
本来は両方あって自然なのですが、「あってはならない」片方だけ禁止され、心の奥深くに沈められてしまうことがあります。その禁止した片方をシャドウと呼びます。
シャドウは間違いなく「在る」にもかかわらず、まるで「ないもの」として心の奥底に沈められるため、その存在を示そうと「これを求めているんだー!」と奥底からたびたび突き上げてきます。
たとえばある人は、意識はできていないものの、心の奥に人を支配したいという欲動があるとします。ふだんはそれを感じなくて済むように「いい人」として過ごしているので自分でも気づけません。
しかしそれが「支配したい心」を体現しているような人や言動に触れたとたん脅威に晒され、激しい動揺に襲われます。それを鎮めるためには自分のシャドウを刺激する相手にその在り方をやめてもらう必要がでてきます。
そこに使われるものが偽物の怒りであり、過剰なまでの相手への批判や攻撃といった行動です。
「自分はそんな人間じゃないんだ!」と思い込むためには浮上してきたシャドウを抑え込む必要がありますから、そのために使う怒りはどうしても過剰にならざるを得ないというわけです。
したがってここで必要な自分助けは
抑え込んできたシャドウも自分の一部として受け入れること
不安と恐怖の勘違い
人は脅威に晒されると次のいずれかの反応が自動選択されます。どちらも本物です。
①恐怖を使って脅威から逃げのびて安全確保
②怒りを使って脅威を追い払って安全確保
(どっちもダメならフリーズして敵が去るのを待って安全確保)
したがって脅威に晒されたときは怒りでも恐怖でも正解です。人が「こわい」を感じているときに怒りが出ることがありますが、それはこのシステムによるものです。
一方で「こわい」には不安という感情もありますが、二者には明確な違いがあります。
●恐怖:「今、ここ」に現実としての脅威がある状態で感じる感情
●不安:「今、ここにない」未来の脅威を想像して感じる感情
目の前に実際の脅威があり、恐怖や怒りを感じていればそれは本物です。
想像によって作りだした脅威に反応して不安を覚え、その結果怒りがわいていれば、それは偽物の怒りです。
それはもしかしたら次の仕組みによって起こっているのかもしれません。
終わっていない痛み
たとえばこういったとき、あなたはどんな感情を感じますか?
●人から不当な扱いを受けたとき
●行動ではなく人格を批判されたとき
●「分かってほしい」を分かってもらえなかったとき
こういったときに、ある方たちは激しい怒りを相手にぶつけることがあります。それは本人にとっては「当たり前」と感じられることも多く、人に話しても理解してもらいやすいため、正当な怒りと感じられることも多いのですが、実はこれも過剰です。理由は先に述べたように「怒りの目的」と異なっているからです。
おそらく怒りの下に隠れている本物の感情は、、、
痛み(傷つき、深い悲しみ)
過去に大切なニーズが満たされなかった(=大切なものを失った)体験により深く傷つき、その痛みが終わっていないと、それに似た相手、状況を始めとしたさまざまなスイッチによって当時の痛みが活性化します。その痛みが怒りとして表現されるわけです。
すさまじい怒り、恨み、憎しみといった感情の多くは「偽物の怒り」で、その下深くに隠されてきた本物はおそらく「痛み」なのでしょう。心も体と同じで、傷ついた部分に触れられるとその痛みにより反射的に防衛的な態度をとるものです。それを頭が「怒り」と勘違いするわけです。
したがってこの自分を助けるために必要なことはここに尽きると思います。
終わっていない痛みを終わらせること
おわりに
ここまでお読みいただきありがとうございます。ここに示した内容は認知心理学、精神分析、仏教などいろんな視点を取り入れて書いてみました。ここにあるものがすべてではないし、絶対的な正解というわけでもありませんが、使うことで役に立つものがあればと願っています。
私たちはふだんしょっちゅう怒りを感じていますが、実はそのほとんどが偽物で、ここでお伝えしたような感情を感じているにもかかわらず、それに気づかないまま偽物の怒りを使いつづけています。言ってみればそれは本物の感情を隠す「仮面」みたいなものです。
仮面で生きる人生は私たちを疲弊させるだけでなく、他者との分断を招きかねません。哺乳類である私たち人間は、本能的に「つながる」ようにできているにもかかわらず、それが正反対に向かってしまうなら、それは間違いなく偽物の感情です。
偽物の感情の下に隠れている本物の感情に気づき、それを活用できるようになれば、それが逆説的に怒りを減らし、心の穏やかさをもたらしてくれます。
あなたにもその日が訪れることを願っています。