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アダルトチルドレン(AC)専門の心理カウンセラー高澤信也 公式サイト

カウンセラーの自分史

カウンセラーの自分史

 

【記事を書いた人】

カウンセリングオフィス トリフォリ 高澤信也

福岡で子育てと生きづらさ克服をお手伝いしています。公認心理師。

 

カウンセラーの自分史


 

プロフィールのページではオフィシャルな自己紹介を書いていますが、ここではACとしての生きづらさにつながったと思われる個人的なプロフィールを書いてみました。ちょっと長いのでご興味ある方だけお読みくださればと思います。

 

 

幼少期

母の日にカーネーションと絵をプレゼント。それを見てすごく喜んでくれた母。これが幼少期の一番の幸せな記憶です。

 

それ以外となると酒に酔って暴れる父、殴られる母、固まる子どもの私たちという記憶が大半。今でもはっきり覚えている場面があります。私が5歳くらいの頃でしょうか、夕食時に父が急に怒鳴り出し、食卓をひっくり返し、湯飲みを投げつけて窓ガラスを割り、母を殴り始め…。

 

この頃には飲んだ父という存在はとてつもなく怖くて、やらかせば「殺される」と思い込んでいたほどです。何がきっかけで父はキレるのかわからず、お酒を飲み始めるたびに全身をアンテナ状態にして警戒していたことを覚えています。

 

 

 

児童期

小学生に上がった頃も引き続き父は酔っては母に暴力を振るっていました。子どもたちである私たちも殴られたようですが、それ以上にDVの目撃が応えていたからでしょうか、実感としては「それどころじゃなかった」って感じです。

 

そんな状態のわが家でしたから、いつ母が殺されるか、いつ家を飛び出すか、、、そんなことを心の底から心配していた私。毎日寝る前の布団のなかで「おかあさんが死にませんように」「おかあさんがいなくなりませんように」と声を殺して泣きがなら手を合わせて神様に祈っていました。

(残念ながら小6の時に一度私は捨てられたんですけどね)

 

この頃には相当精神的に追い詰められていたのでしょうか、小学校での国語のテスト中、急に得体の知れない感情爆発が起こり、静かな教室で「うわーっ!!」とわめき出し、鉛筆でテスト用紙をビリビリに引き裂いたことを覚えています。その時の先生は顔が完全に固まっていました。さぞ怖かったでしょうね。(先生、ごめんね)

 

 

 

思春期前半

中学に上がると同時に背骨の病気が発覚。上半身全体を覆う金属製のギプスをはめることになりました。まるでロボみたいなそのギプスをつけたまま外を出歩いたり、学校へ行ったりしないといけなかったのですが、その度に指を差して嘲笑されたり、あからさまに「気持ち悪い」と言われたり、見てはいけないものを見たような眼差しを向けられたり。羞恥心で身を焼かれる思いでした。当時の感覚としては「生きているだけで恥ずかしい」でした。

 

その一方で中学2年から以降は友達も増え、異性とも仲良くなり、学生生活はそれなりに楽しかったです。ここに救いがあってよかったなあと思います。

とはいえこの頃も家に帰ればいつも通り、ではありましたが_| ̄|○

 

 

 

思春期後半

中学の後半から高校くらいになるとちょっとだけヤンチャ系に走りました。酒、タバコ、バイク、夜遊びなどなど。元々は臆病な性格だった私なので、この頃には相当無理していたと思います。「強いフリ」「怖くないフリ」をずっとしていたことは間違いありません。

 

この頃になると酔った父の暴力はかなり激しさを増していました。私が高2のある時、その日の父の暴れようは尋常ではなく、なんとか「止めなくてはいけない!」とそれしか考えられなくて、短絡的に台所から包丁を持ち出し、父に向かって「殺すぞ!」と叫びました。

 

すると「殺すなら殺せ!殺したってお前の中にも俺と同じ血が流れてるんだ!お前も俺と一緒やぞ!」と喚き出した父。その瞬間、自分のなかで何かが壊れた気がしました。「もう、どうでもいいや」。そんな感覚に陥り、気づけば包丁で父を刺そうと飛びかかっていました。

 

でもその時は母に泣きながら土下座で「お願いやけん、やめて」と懇願され、兄と姉が全力で私を羽交い締めして止めてくれたお陰で親殺しはせずに済みました。

そのまま家を飛び出し、バイクであてもなく走り回ったところまでは覚えているのですが、それ以降の記憶はありません。かなり辛かったんではないかと今は思います。

 

 

 

思春期〜青年期

こんな感じのわが家だったわけですから、母もそれなりに課題を抱えていました。ことあるごとに「別れたい」と泣きながら嘆くわけです。ちなみに私はその訴えを幼い頃からずっと聞いてきました。皮肉にも小学校低学年の頃にすでに私は「小さなカウンセラー」だったわけです。そのたび私がずっと言い続けてきたセリフは「別れていいとよ。ぼくは大丈夫やけん」。

 

しかし決まってこう返されるのです。「お前が小さいけん別れられん」と。このやり取りは私が高校生になるまでずっと続いていたものです。私はこの「かわいそうな母」を助ける役割をずっと引き受けていました。でもそれが達成できない。その結果気づけば「自分が生まれてきたせいだ」「自分には何の力もない」「生きているだけで迷惑」…。そんなことを心底信じ込んでいました。

 

そんなこんなが続いていたある日のこと、酔って暴れる父のその日のありようは、狂っているとしか思えないほど常軌を逸していました。母をボコボコに殴ったり蹴ったり。きょうだい3人がかりで必死に止めましたが、それでも止まりません。しまいには母の頭を掴み、全力で壁に顔を打ち付けました。そして母は意識を失いその場に崩れ落ちました。

その瞬間、自分の頭のなかで「カチッ」って音が聞こえました。そこからの記憶は完全に途絶えたままです。

 

その先に繋がっている記憶と言えば、ある日母からの「頭が痛い」という電話。病院に行くことを勧め、その2日後に病院に行くと言っていた母。しかしその日の夜に急に意識を失い、救急車で運ばれるも病院に着いた頃には亡くなっていたと連絡を受けました。必死に駆けつけるも死に目には間に合わず。死因は原因不明の突然死。私が20歳、母が49歳の日の出来事です。

 

 

 

青年期

母亡き後も父とは色々とありました。一緒にいるととにかく苦しいことばかり、一人になった父から離れるのはひどい罪悪感に苛まれましたが、自分の人生を優先して、父とは完全に距離を取ったのがこの時期です。

 

しばらくは「自分は冷酷なだけではないか」「自分は人としてどこかおかしいんじゃないか」などと自分を責めては苦しかったものの、それでも「自分を助けるしかない!」と信じて親とは完全に一線を引きました。

 

そして20代半ばでお付き合いしていた女性と結婚。その頃の勤め先は大手の地場企業。子どもの頃からずっと切望していた「心穏やかな暮らし」がようやく訪れるんだと安堵したものです。

 

が、しかし、その期待も虚しく、結婚して間もなく私は妻から捨てられました。突然の離婚届。その後は一切会ってももらえず。原因は私の傲慢さ。妻の気持ちや思いをことごとく踏みにじっていたにもかかわらず、当時の私は自分を「良き夫」と勘違いしていたんです。

これは死ぬほど堪えました。

 

これまでに起こった様々な問題に対して私はいつも心のどこかで「相手が悪い」「自分は悪くない」と被害者面で生きていたんです。自分の非に直面しても、「あんな家で育ったんだからしょうがない」と課題に目を背けてばかりだった当時の私。

 

それが、優しく、親切で、思いやりがある妻からの完全拒絶。さすがに逃げられませんでした。(半年間ろくに食事が喉を通らず、気づけば体重は20kg減、栄養不良で毛髪が尋常じゃないほど抜けました。これは今もかなりの後悔です 汗)

 

これが「自分には課題がある。これは自分が解決すべき問題だ」とようやく気づいた瞬間です。だからこそ別れた妻にはきちんと謝罪とありがとうを伝えたかったのですが、残念ながらその機会を得ることをできずにいます。これは非常に心残りなのですが、自分が撒いたタネである以上、しょうがないんですよね。とにかく幸せになってくれていることを祈るばかりです。

 

 

 

セルフケアと本物の安全基地

これが契機となり、ようやく「とにかく自分が変わるしかない!」と覚悟が決まりました。

 

それを境に心理学の本を読み始め、アダルトチャイルドという概念を知り、自分を助けることを必死にやり続けました。自分助けのピーク時には仕事を終えて帰宅した後に認知療法をセルフで毎日3時間とかやっていましたね。今となってはビックリですが、お陰ですごく助かりました。

 

その後も貪欲にセルフケアの手法を探索しては実践、探索しては実践を繰り返しました。そのお陰で喉から手が出るほど切望していた「心の穏やかさ」が着実に増加。自分の人生には一生訪れないと思っていただけに、ほんとうに嬉しかったです。

 

ちなみにこの頃にお付き合いしていたのが今の奥さんです。彼女はこれまでの人生で会ったことのない健康的な人でした。自分も他者もどちらも大切にできる。人格と行動にきちんと線を引くことができる。自分の責任と他者の責任をきちんと見分けられる。人の境界線内に侵入しないけど、ちゃんと繋がることができる。

 

私をほんとうに救ってくれたのは今の奥さんです。

バウンダリー(自他境界)という大切なものを肌身で教えてくれたお師匠様みたいな存在です。結婚して20年になりますが、今も変わらず誰よりも愛しい人です。

 

彼女の助力も相まって、度々衝突はしたものの、父との和解を果たしたのもこの頃です。これがあったからこそ父の最期を見送ることができました。ここも妻にいくら感謝してもしきれません。

 

 

 

そして援助職へ

セルフケアのお陰に加え、今は妻となった当時の彼女の支えお陰も相まって、気づけば「心の穏やかさ」はさらにどっしりとしたものに育っていきました。それである時思ったんです。自分助けをすればこんなに生きやすくなるなら、これを広めない手はないよね!と。

それがカウンセラーに転身したきっかけです。

 

人の支援は大変なことも多々ですが、セルフケアのお陰で自分を支えながらやってこれています。とはいえ最後までお手伝いできなかったことも少なくありません。「今の自分だったらもっとより良い支援ができただろうに…」と口惜しさを覚えるケースも多々です。

 

あの頃のクライントさんたちのことを今でも時々ふと思い出します。元気でいるだろうか。幸せになっているだろうか、って。とにかくどこかで誰かとの繋がりによって助かっているようにと、幸せになっているようにと、心から祈るばかりです。

 

 

 

ミッションは世代間連鎖を断ち切ること

10年前のある日のことです。私の人生を激変させる出来事が起こりました。わが子の誕生です。

 

親になって初めて知りました。わが子に感じる愛しさというものが無尽蔵であることを。愛しても愛しても愛したりない。与えれば与えるほどむしろ愛情はどんどん湧き出してくる。

自分の内側にこんなに愛が詰まっていることに面食らったほどです。

 

でも一方でこんな痛みを覚えました。

こんなに愛しい存在に真っ直ぐに愛を向けられない親たちがいる。なんて悲しいことだろうと。

最愛の親に真っ直ぐな愛を向けてもらえない子どもたちがいる。どれほど悲しいことだろうと。

 

そして自分のなかで何かがスパーク。これまでの人生の全てがここに集約されてきたように感じました。それが

 

「わが子を真っ直ぐに愛し、育める親を増やそう!」

その力を借りて「その親から真っ直ぐに愛される子どもを増やそう!」

 

それが今の私の最大のミッションです。

 

生きづらさを抱えたアダルトチルドレン当事者の支援はもちろんですが、その状態で子育てしている親御さんを助けていきたいと、今は強くそう思っています。

 

そのためにもなんとか生きている間に

★子育ての学校

みたいな子育て中のおかあさん・おとうさんのための居場所を作ってみせる!と息巻いている昨今でございます。

 

 

 

最後に

気づけば自分でも驚くほどの長文になっていました。失礼しました。

 

カリスマでもなければ、超すごいパワーを持っているわけでもない地方の一支援者に過ぎない私ですが、それでも自分なりの強い信念を持って支援活動に取り組んでいます。

 

そんな私と一緒にセルフケアで自分助けしたい!子育てをよりよくしたい!なんてことをやっていきたいというお仲間が増えると嬉しい限りです。その時は一緒に歩んでいきましょう!

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

心より感謝いたします。

 

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